―先日、ある友人の指揮者が「バッハの曲は、キューヴィックな箱を複眼的に眺め、回転しながらすすんでいく円運動である」と語った。たしかに、ゴールドベルク変奏曲(睡眠薬の代用としてつくられた曲)は、はじめのテーマが三十のヴァリエーションのあとにもう一度くり返される。つまり、エンドレスな構成だからこそ円運動を意識せざるをえないのである。ゴッホは「人生はおそらくまるく完全だ」と言った。セザンヌは「自然は球と円錐と円柱で構成されている」と言った。これを立面図としてみれば、丸・三角・四角であり、さらに平面図としてとらえれば、円に集約される。その他のジャンルにおいても例を挙げればきりがない。
 偉大な彼らはさておき、実際、絵画というものが世界を夢想し、知覚し、時空間を区切りとる枠だとしたならば、いつの時代にどのように四角形になったのか不思議でならない。私は過去何回かの浜松野外展において、四角形で世界を捉えなかったし、現実にそのようには知覚されないことを経験した。もともと空間というものは、意識することによってはじめて開示される雑音のように不確かなものである。そして、雑音を混沌として知覚するなかに現出する基調が問題なのである。それは架空の円として意識のなかに表出する。つまり、現実を反転し、虚構化された現実のなかに見るもう一つの「景」なのかもしれない。
 ―私はドローイングにおいて白い紙に黒色のクレパスを用いている。白い色と死の象徴性の関係の研究はあるが、学究的なことはさておき、他のジャンルにおいても死の瞬間を黒で表すことは意外に少ない。おそらく白色として表している。ミッシェル=セールは「白色は存在の存在」ともいっているが、私が白色を用いるのは、白色が拡散的であり、存在の離脱としての存在のように思われるからだ。また、黒をその対極として捉えることに無理があるとしても、物質のもつ色素の混色は最終的に黒に近づくことは事実である。黒は存在の集中として、求心的なのだ。生における生成の混沌のなかで、求心としての古層の源流を辿り、黒い象徴性に、生における基調を感じる。いずれにしても、白と黒は互いに離反しえない関係としてある。私の日常も白と黒とのアンビバレンス(両面価値)のなかにありそうだ。
   

今井瑾郎

ドローイング

 

 

 

   「Alternative Topology 今井瑾郎&村田千秋展」2006-6-19〜7-1(Galleria Finarte企画展より)